▼所在地:尼崎市神崎町33番1号
『杜の聲』第7号(平成28年10月吉日発行)
「地域の企業紹介 第3回」掲載(一部加筆訂正)
関西ペイント株式会社は大正7年5月17日に設立された。設立者は岩井商店(現双日)の創業者である岩井勝次郎であり、設立の地は現在の尼崎事業所の地である。
尼崎事業所のある神崎町は、当時(兵庫県)川辺郡小田村と呼ばれ、農地が広がる場所であったが、神崎川と猪名川から分かれた藻川が合流する地点の右岸であったことから、水運に恵まれていた。また、阪神工業地帯に近かったため将来は陸運も発達することが予想された地でもあった。創立と同時に5月21日には用地買収を完了、その後は本社事務所及び工場の建設が始まった。そして、8月には塗料工場、油工場のほか、倉庫・工務室・事務所が完成し、製造が本格稼働した。製造品種は月を追って増え、それとともに必要施設と人員も増えていった。
創立時は第一次世界大戦の最中であり、国内経済が活況を呈していたことから、塗料の需要も多かったが、大戦が終結すると景気の停滞の影響を受けるようになった。しかしながら、岩井勝次郎を始めとする経営陣の踏ん張りのもと会社は持ちこたえ、大正15年には国産初のラッカー塗料「セルバ」の開発に成功した。これ以降、当社は様々な塗料を開発し世に送り込むこととなる。やがて第二次世界大戦が始まり、この間当社工場は軍需工場として稼働する。ちなみに尼崎工場には「神武末広第一八一工場」との暗号名がつけられていた。この戦争では、当社の全国各地の拠点(本社事務所、東京工場、国内・海外の出張所)が空襲で被災、また神崎川沿いにあった軍需工場も軒並み空襲の被害にあったが尼崎工場のみ幸いに被害を免れた。
戦後は日本の復興とともに、当社も復興の道を歩むことになる。昭和22年には東京営業所を開設。昭和25年には本社事務所を大阪に移すとともに(ただし本店は設立時より神崎町)、戦後初の新製品を開発するまでとなった。その五年後には、戦前に出張所を置いていた台湾に再進出するなど、戦後の事業復興が本格的なものとなっていった。1950年代から1960年代は、石油化学産業が進展した時期であるが、これに伴い塗料も進化した。そして、高度経済成長期から1970年代前半にかけて、当社は家庭塗料の分野へ参入し、国内での新たな工場の建設、技術開発促進のための研究所を設立するとともに、海外進出や海外メーカーとの技術提携も増やしていった。
昭和48年に起こった第一次オイルショックでは、原材料価格の高騰の煽りを受けることになり、一方で環境規制が強化され始め、当社にとっても環境コストの増加が問題となったが、これが新たな製品開発等の機会ともなり、現在に至る多くの製品が開発された。その後、昭和61年には、巨大市場であるインドでの商圏を拡大すべく現地企業に資本参加した。翌年新たにコーポレートブランド「ALESCO」を立ち上げ、新たな時代を迎えることとなった。1990年代以降は、更なる環境製品の開発や、CSR対応(環境社会報告書(現 統合報告書)の発刊)、全事業でのISO14001の取得(現在尼崎事業所は認証を返上して自主管理)等、地球環境と国際社会への働きかけをするなど、新たな会社の取り組みを推進させた。更に平成12年以降は、海外の現地法人の子会社化を加速させ、グローバル展開を成し遂げていった。平成23年の南アフリカとベトナム、平成25年のジンバブエ、平成27年のスリランカとミャンマーにおける合弁会社設立や子会社化などは近年の特筆すべき動きである。
令和2年12月31日現在、当社の海外関係会社は32カ国71社に及ぶ。国内拠点は、本社事務所(大阪市)と東京事業所(東京都大田区)のほか、5事業所 1研究所で、営業は販売子会社である関西ペイント販売株式会社が全国32カ所で展開している。
当社は平成30年5月17日に創立百周年を迎え、海外を含む関西ペイントグループの統一コーポレートブランドを制定し、「次の百年」に向けて新たな船出を始めた。
さて、当社創業の地である尼崎事業所の構内には、一心稲荷が鎮座している。神域は多くの樹々に囲まれ、周囲の雰囲気とは異なる静寂さが漂っている。ここでは毎年、創業日である5月17日に社長参列の下、大祭が厳かに催されるが、5月以外でも毎月、事業所代表による安全と会社発展の祈願祭が挙行されている。また、当社の他事業所で祀られている御祭神はすべてこの一心稲荷大明神である。
国内外での事業を積極展開する当社であるが、創業の地である尼崎事業所は、今までも、またこれからも当社の枢要の地であり続けることであろう。