▼所在地:尼崎市常光寺1丁目9番1号
『杜の聲』第6号(平成27年12月吉日発行)
「地域の企業紹介 第2回」掲載(一部加筆訂正)
インゴットケース(鋳型)の溶接補修の高度な技術(特許)を持つ富士工業所が住友金属工業㈱大阪製造所内に大阪出張所を設ける。これが前身となり昭和30年3月、取締役社長に大島市郎氏が就任し大阪富士工業㈱が資本金百万円で誕生した。同年、住友金属工業㈱を皮切りに、翌年、川崎製鉄㈱、昭和36年、㈱神戸製鋼所の一部工場の指定業者となり、以降各会社の工場内に事業所出張所を設け持てる技術を駆使して鉄鋼生産の一層の効率化と製品の品質向上に貢献する。現場での実績が認められ、政府の輸出推進策の時流とも相まって社員数が増大、次第に各出張所は事業所に、事業所は支店へと統合、拡張を遂げる。その間昭和35年、尼崎市久々知に本社工場を、また41年に新工場が設立され、親会社のニーズに即応すると共にロールなどの特殊溶接にも応じる。昭和34年以降インゴットの補修のみならず鉄鋼の鋳造工程ラインの仕事が増大し、連続鋳造等の新時代にも対応していく。
昭和40年代は日本の高度成長期に当たり社員獲得が困難となり、水島支店や千葉事業所では農村部出身の社員が多く農繁期には会社を休む社員も多かったためコンバインと人員を農家に提供して農作業の省力化に寄与し、余力を会社の労働に向けるという戦術が取られた。その様子はNHKで全国に放映される。
昭和40年代後半は住友金属工業㈱及び川崎製鉄㈱の一部を除く全製鉄所あるいは製鋼所・工場、また神戸製鋼所の神戸内の全工場にそれぞれ指定業者として参入し、大きな展開を遂げることとなる。
この時期に技術部が設立し、矢継ぎ早に鋳型の研削機等の新機器が開発されると同時に最先端の新機器が各現場に導入され、精度の向上、省略化・自動化に成果を上げ、現場の保全に至るまで任されるようになる。
昭和50年代前半には本社工場並びに本社を尼崎市常光寺に移転。守護神の末広稲荷社も遷座される。本社工場に於いてガスプラズマ溶射、ソフトプラズマ溶射を導入。一方、各地で工場を設立し、溶接・溶射加工を専属に手掛ける。機械の開発のみならず溶射等の技術も開発し、現場に則した加工を施すこととなる。昭和五十年代後半、鉄鋼関係以外の分野にも進出し開発・販売にまで事業を展開。その背景には鉄鋼業界の円高による不況があった。
昭和60年代前半、内需の拡大により鉄鋼業界が漸く好況となり、昭和63年には営業利益が拡大する。
平成10年代後半には鉄鋼部門とそれ以外の製造部門の売上が同等となり、平成17年には創立五十周年事業を催す。平成20年には本社新社屋を竣工。平成26年には60周年を迎え現在、鉄鋼の分野では大手メーカーのパートナーとして、ラインに於いて生産管理から品質管理、機械設備設計、設備メンテナンス等、各種工程を一括で請負う。
機械加工の分野では大型NCボーリングや大型ターニングを駆使して、大物加工から複雑な加工まで対応。
溶接の分野では、粉体プラズマ溶接法による硬化肉盛自動溶接を得意とし、素材の表面改質を業界トップレベルの技術で実現。
溶射の分野では、ロボットによる自動化やプラズマ溶射など、最新の設備により施工。
スライシング加工では石英、超難加工性金属材料、太陽電池シリコンウエハ等、様々な材料に対応、また一府七県に支店・工場・営業所・研究所・事業所を開設し、一府七県とベトナムにグループ会社をもち幅広く事業を展開している。